■懸垂曲線とアーチ
懸垂曲線は,密度一定のひもが両端で固定されて垂れ下がった時の形です.
石積の橋が描くアーチもこれと同じです(懸垂曲線の上下を逆にしたもの).円柱状のジュースの缶を5つ積んで,アーチを作りつり合いを保っ実験をしてみました.テーブル上のアーチの根元にある左右のブロックは,一番下の円柱を両側から押しています.
円柱の間は点接触ですのでバランスをとって積むのは非常に難しいが落ち着いてやればできます.この形は石積の橋と同じ懸垂曲線です.
私が通潤橋(熊本県上益城郡山都町)を訪れたのは,2007年10月のことでした.22日は,午前中に潤徳小学校3,4年生36人に万華鏡づくりの授業,午後は先生方と人形浄瑠璃を観劇しました.
■通潤橋の写真(放水時に撮影k.Tani)
阿蘇山の南側のこの付近の地形は,島のように台地があり,台地から台地への移動が大変で平家の落人が隠れ住むのに好都合だったようです.台地(白糸台地)に農業用水を引くのが大変です.
水は台地のがけ下に汲みに行かなければなりません.
時の惣庄屋「布田保之助(ふたやすのすけ)」は,白糸台地に水を引くための水路橋”通潤橋”を,肥後の石工たちの技術を用いて1854年に建設しました.通潤橋は,石造りアーチ水路橋で,長さ75.6m,高さ20.2m,幅6.5m.
橋の上部にサイフォンの原理を応用した3本の石の通水管が敷設されています.
◆通水管
長さ約127m.石をくりぬいた1尺(30cm)四方の函渠(圧力のかかる管水路).管と管の繋ぎ目には,振動吸収と漏水防止のための漆喰(しっくい)が塗られている.さらに,通水管には5~6ケ所に地震対策のための板(緩衝材)を挟んでいる.
→http://www.geocities.jp/fukadasoft/isibasi/tsujyun/tuusui.html
通潤橋は両側台地より低いので,サイフォンの原理で出口で水を押し上げています.通潤橋の高さから流入側台地は7.5m高く,流出側台地は5.8m高い.
→http://www.geocities.jp/fukadasoft/isibasi/tsujyun/kaisetu.html
通潤橋は,今でも周辺の田畑を潤しています.
放水は,通水管に詰まった堆積物を取り除くために行うものです.
「通潤橋史料館」 に行くと,どのようにアーチ石橋を施工したかわかります.川の中に写真のような木枠を大工が組んで石工が石を置きました.
アーチ橋の高さを台地の高さまで上げられなかった理由は,
この木枠をこれ以上の高さにする木材がなかったためという事です.
石橋の木枠を外す最終段階は,橋の中央に白装束を纏った布田翁が鎮座し,
石工頭も切腹用の短刀を懐にして臨んだといいます.
写真に見えるアーチ曲線を型どっている石の並びについて話しましょう.
アーチの頂点にある石を”かなめ石”と言います.アーチ状に一列に並んだ石達は自分の重さで互いに締め付けあい安定になっておりセメントなど不要です.それでも下の木枠を外すときは,とても心配で責任者は命がけだったでしょう.布田翁も石工頭も命がけで臨んだのがよくわかります.
近年の熊本地震でも残ったのは,その堅牢さ(石の配管の修理をしたと聞きます)の証明です.
■人形浄瑠璃
http://seiwabunraku.hinokuni-net.jp/wp-content/uploads/img/about/s_06.jpg
人形浄瑠璃は,清和文楽館で観賞しました.山都町の人形浄瑠璃の始まりは,江戸時代の嘉永年間(1850年ごろ)で,山都町(旧・清和村)を訪れた淡路の人形芝居の一座から,浄瑠璃好きな村人が人形を買い求め,技術を習ったのが始まりといいます.
清和文楽は農家の人々が農業の合間を縫って練習や公演を行い伝承されてきました.良い話です.江戸時代の庶民の文化の高さに感激しました.三人で一体の人形を操ります.首(かしら)と右手を操る「主遣い(おもづかい)」,左手を操る「左遣い」,足を操る「足遣い」です.人形も触らしてもらいました.
長くなったので,本題のアーチの数学については,次号に回します.