千川論文[千川純一,ひょうご科学財団]は,実用化も期待でき興味深いが難解なので,ここで解説を試みます.厳密な記述は原著論文を参照ください:
・Chikawa et al.,"Hair growth at a solid-liqid interface as a protein crystal without cell division", Progress in Crystal Growth and Characterization of Materials, Volume 65, Issue 3, August 2019, 100452
・Chikawa et al.,"Cancer development in the hair spectra by X-ray
fluorescence using synchrotron radiation",International Journal of Cancer, in press
■千川論文の意義
毛根にある毛球から毛髪は成長してきます.毛球の中は液体で,毛髪の成長は,あたかも,固液界面で成長する無期結晶のようです.固液界面には毛母細胞[毛球と毛幹(毛髪のこと)の境界]があり,その液体側の毛球に,S, K, Ca, Srなどの元素が偏析し,血液から毛母細胞に流入する元素量と,成長した毛幹の元素量が等しい状態が維持されています.
毛髪の成長は,純化学的過程(化学ポテンシャルの勾配が成長を駆動する)で行われることが示されました.[細胞分裂で成長するときのように遺伝子の関与もなく,チューリング反応拡散系と同じように純化学的な過程です]
この平衡関係から毛髪の元素濃度は血液の元素濃度から計算できるので,毛髪の分析をすると毛母細胞のイオンチャンネルの開閉の記録(癌の発生と成長に密接に関係している)が分かるというのがこの研究のミソです.
臨床データとリンクし収集した多数の毛髪の分析が実施されました.
毛髪1本の毛根から先端へとX線蛍光分析をし,種々の元素の分布するパターンのデータを収集しました.これらを解析し,大気汚染(黄砂)による心筋梗塞,脳梗塞の死亡率の増加の原因も毛髪分析で示されましたが,特に重要な結果は,癌発生の機構とCaの分布パターンが関係のあることを見出したことです.
■毛髪のCaの分布と癌発生のメカニズム
Caが不足すると,副甲状腺ホルモン(PTH) が分泌され,PTHが各細胞の「受容体」に結合すると,細胞のチャンネルが開いてCaを取り込むので,毛髪カルシウムは正常値を超えます.他方,血清Caが正常値以下に低下すると,小胞体に備蓄のCaを使うために別のチャンネルが開きます.これら2種類のチャンネルの開閉の記録が毛髪Ca 濃度に残されています.
情報伝達の主役であるカルシウム(Ca)の毛髪濃度は,毛母細胞のCaチャンネルが閉じた状態の正常値と,その5倍も高いPTH制御Caチャンネルは開いたときの値があります.また,正常値以下で小胞体の備蓄Ca量制御のチャンネルが開いた状態も起こりますが,これらは識別できます.
癌患者の毛髪を先端から毛根へと分析すると,癌の種類によらず,癌は必
ずPTH 制御チャンネル開のCa高値で発生し,癌成長とともに1~2年かけて正常値に降下し,さらに,小胞体の備蓄Ca量制御のチャンネルが開くCa正常値未満の状態(癌の「成熟」と呼ぶ)が続くことがわかりました.即ち,癌の発生から成熟までが,毛髪に特有のパターンとして記録されるわけです.
■(注)放射光実験の方法
毛髪の元素分析は,2003年から千川純一らが実施しており,臨床とリンクし採取した多数の毛髪分析のデータを集積しました.放射光を用いる蛍光X線分析は,毛髪一本で長さ1mm以下でも精密に測定できます.放射光施設利用にボトルネックはあるものの,毛髪だけ提供すれば済むので,人体に安全な診断方法であります.
血液は採取した瞬間の結果しか知ることができないが,毛髪には過去の記録が残されていて[1カ月に約1cm成長]変化のパターンを知ることができるところが,この方法の優れたところである.
さて,毛髪1 本(直径は100μm 程度)中のX 線照射点から出てくる蛍光X 線を観測すれば,その点に含まれる元素を検出することができますが,毛髪の元素濃度を得るには,蛍光X線強度を照射された部位の体積(質量)で規格化する必要があります.これにはそのとき観測されるバックグランド強度を用います.バックグランドは毛髪母体のタンパクによる散乱X 線(小角散乱領域ではない.コンプトン散乱が主体)で,一定の方位にセットした検出で,散乱X線も蛍光X線も測定できます.これらの比をとれば毛髪の太さや形状によらない値になり,濃度指標が得られます.