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産業化社会の受身から脱しよう

投稿日時: 2020/07/20 システム管理者

産業(化)社会

産業化社会では物が豊富でなんでも売っているので,人々は受身になってそれを享受するようになりました.ものを買うだけの都会の消費生活です.その昔,私たちは手に入らないものを工夫して作るのが楽しみでした.しかし今や,個人では作れない高レベルのものが安く売られている時代です.少年の頃のラジオ作りをやったあの楽しみが奪われたのです.コンピュータもマイコンと呼ばれた時代は楽しんで作りました.今でも作る人もおりますが,高性能なものがデザインも良く作るよりも安く手に入るとなれば,やる気がなくなります.TVの修理にしても,基板ユニット部品を丸ごと交換するので,エンジニアは自嘲をこめて自分をチェンジニアと呼ぶ時代です. 産業化社会は,都会の消費者のように豊富な物品を享受する受身の生活を浸透させました.

産業(化)社会の後に到来する脱産業社会

脱産業化社会は情報化社会になるらしいのですが,産業化社会を享受しすっかりやる気を失った受身の人間が大多数の社会ですので,主体性のない腑抜け社会,バーチャルの社会であります.はやく本当の情報社会を作りたいものです.
今や,政治も文化も,スポーツ観戦と同じ,自分がやっている気になるだけのバーチャル社会であります.主人公たるべき国民が観客化しているのです.TVはこのような受身の人間の洗脳支配に使われています.そのようなものでは情報社会になり得ません.本当の情報化社会になれば,それぞれ個人が自分で考えそれを発信できる社会になるでしょう.

現状のTVは限られたコメンテータやタレントが支配し,メジャーな情報がすべてを押しつぶし隠ぺいしています.マスコミ・メディアは隠れた問題を発掘し木鐸となる勇気はなく,叩ける弱いものに集中攻撃をする.なんと骨のないことか.それでも一応,何でもかんでも情報はそろえてあります.その豊富さは,逆に自分がやらずとも専門家がいる,あるいはすでに周知のことなのだと思わせることで,やる気を失わせガス抜きをしてしまう.あるいは,自分で研究して作らなくても既にあるということで開発意欲を消してしまう.逆説的な言い方をすれば,自分が選手ではないのに,ワールドカップやオリンピックで戦っているつもりになるばからしさに似ている.最大の問題は,民主主義の主体たるべき国民が観客化していることで忌々しい限りです.選挙でも変わらない,何をやっても変わらない政治に対する無力感が,観客化した受身の人々をますます増加させています.

私たちは正規分布の一点ではない

投票所が閉まって,まだ1票も開票されていないのに当選確率のでるバカらしさを見てください.少なくとも自分の入れた投票が開票されてからにしてほしいものだ.大体,世論調査というものや統計は,個人を正規分布の1点としか見ないのです.個人の個性は無視されます.RDDの世論調査も投票所の出口調査も,私は聞かれたことがありません.私の意見はどこにも反映されていないのだが,そんなことにかかわらず大勢は決まっているという現実がある.世論調査や選挙報道は,集団の統計量(巨視的な数値)だけに関心があり,私たち個人の微視的な考慮はできません.また,統計量は因果関係を論ずる論理的なものでもありません.皆様が今関心をお持ちの新型コロナ感染拡大を例にするなら,巨視的と微視的の視線の違いは,疫学統計は集団の巨視的な数値として死亡率や感染率を取り扱うが,患者の治療にあたる医師は担当する患者一人一人に目を配るというところです.
現状のビッグデータ解析は,手の届かないところから運命の決定が下りてくるようで気持ちが悪い.まだまだ不確かであります.このような未成熟情報化社会のマイナス面が,選挙投票率を低下させ,政治への関心を低下させています.さらに,国会で論争もなされない議会軽視がこの風潮をさらに助長しています.

しかし,情報社会は我々個人が主体的に発言できるプラス面があるはずです.声の大きいマスメディアに支配させていてはいけません.脱産業化時代になろうとしているのに,受身の享受体質ではいけません.個人が統計集団の中の1点ではなく,個人がそれぞれ自分で考える時代である必要があります.

(参考)産業化社会については,中岡哲郎の論説をご覧ください.